Saturday, April 23, 2016

おのれがいかに無知であるかを学ぶ

外人で、日本語の文学を勉強するというのは「日々おのれがいかに無知であるかを学ぶ」機会となります。

今の引用はアロースミスの10章の4の最後のところからです。小説の話は医学を勉強しているマーティン・アロースミスを指していますが、十分自分にとっても意味があります。意味があるだけではなく、意味があるからこそ美しいのです。

最近は宗教をやっていませんが、若いころやっていたのはモルモン教です。初めて日本に来たのもモルモン教の宣教師として来ました。日本のこと、日本語のことを教えたこの教会に関しては感謝しています。それに、文学の好きな自分にとってはまだ聖書、モルモン書の中身を文学としては賞しています。

今日、アロースミスで見つけた上の文書に似たものがモルモン書にもあります。エテル書12章27節:「もし​人が​わたし​の​もと​に​来くる​なら​ば、わたし​は​彼ら​に​各々​の​​弱さ​を​示そう。わたし​は​人​を​謙遜に​する​ため​に、人​に​弱さ​を​​与える。わたし​の​前​に​​へりくだる​すべて​の​者​に​対して、わたし​の​​恵み​は​十分で​ある。もし​彼ら​が​わたし​の​前に​へりくだり、わたし​を​信じる​なら​ば、その​とき、わたし​は​彼ら​の​​弱さ​を​強さ​に​変えよう。」

まあ、自分の今の考え方よりはちょっと固いのですが、とにかく、日本語に関してはこのように思っています。どんなに無知か分かることによって、段々と強くなっていくだろうと。このブログを読む方が、少しづつでも進歩が見えればと思っています。

Sunday, April 3, 2016

手作りの日本語

最近、日本人の友達に言った。普通は文学のプロジェクトでは現代の書き方に替えているだけだと。體の替わりに体、實のわりに実。そんな感じ。

でも、翻訳ミスがあるところで、「手作りの日本語」を作っている。手作りでもいいけど、外人だよ。外人。

とにかく、誰も読まないといけないというのはないから、一応必要のところで手作りの日本語を入れ替えている。

今日もそう。英語では「一ドルの真価」というのがある。ある意味で一ドルの真価は一ドルだ、もちろん。でも「一ドルの真価」を認める、認めないというのは、お金を上手に使う、使わないということ。

英語版ではそんな話が入っていて、その上、作家のルイス氏が冗談も入れた。(冗談がいっぱい入っているからこそこの作家が好きで、また、あるから訳も難しいのかも知れない。)

この冗談というのは、自分の手作りの日本語で言えば、「バートは役に立つ人間ではあったが少々無分別なところがあり、また『1ドルの真価』を認めることができないのであった。(トツアさんはその真価は1ドル90セントであると認めていても、せっかちなバートの認めている真価は1ドル50セントを大体過ぎないのであった。)」

元の日本語訳ではこうなっていた、「バートは役に立つ人間ではあったが少々無分別なところがあり、また『一班によって全豹』を知ることができないのであった。(トツアさんは一班から豹の90パーセントを推察しえたが、せっかちなバートには一班によってその50パーセント以上を推察しうることはまれであった。」

全然違うだろう。でも、翻訳者というのは、ある程度余裕もある。あの英語の慣用表現の代わりに、この日本語の慣用表現を使うとか。そういう場合には言葉の意味は全然合わないときもある。が、正しい翻訳なら、意味は、その全豹というものは、同じではないとミスだと自分では思っている。

そのケースに、プロジェクトの中には手作りの日本語が入っちゃう。