Thursday, February 16, 2017

愛情を持ちながらも作り方の間違った料理

またアロースミス・プロジェクトの話しですが、19章にかなり大きいミスがありました。

ここの部分は英版とは全然意味が違っています:「リオーラの気に入りの料理法にはよったのだが、コックが彼女の指図を勘ちがいしてしまったのでご愛嬌ものになってしまった、トウモロコシの揚げ物だの、たくさんの小皿だののついている古めかしいアイオワ風の夕飯。。。」

自分の書き直しは英版に合っているつもりです:「リオーラの愛情を持ちながらも作り方の間違った料理と比べて愛嬌もので、トウモロコシの揚げ物だの、たくさんの小皿だののついている古めかしいアイオワ風の夕飯。。。」

Wednesday, February 15, 2017

舞々ちゃん:プロフェッショナル・キャット

恵ちゃんといって、うちの前の猫は日本にもアメリカにも住んだことがあったが、今は思い出の中でしか住んでいない。

メグちゃんがいなくなったら、妻はあっちこっちの施設で新しい猫を探した。最初はピンと来なかったが、ある日、隣町の施設でこの子を見つけた。
新しい猫が家に住むようになったら、名前を考えないといけなかった。文学好きの自分は、もちろん、「猫であるからこそ吾輩とつけたらどう?」と提案を出したのが受けられなかった。今度、同じようなテーマを考えて、「だったら、あの猫みたいに名前を付けないことはどう?」と言っても、やっぱり断り。

こんなに立派で文学的な提案を断ったうちの妻は、罰として、自分で名前を考えないといけなかった。色々と試みて、やっと付いてのが「舞子」という名前だった。それで、私が「振る舞い」などとも呼ぶが、大体は「舞々ちゃん」と呼んでいる。舞々ちゃん:プロフェッショナル・キャット。

Sunday, October 30, 2016

吾輩は三毛猫ホームズである

日本文学の猫が1905年に生まれて、70年間も名前がなかった。

Sunday, July 31, 2016

ライブ・ワイア

アロースミスプロジェクトの話です。12章に英版では或る人がLive Wireだと書いてあります。活線という意味なのですが、元気者のこともいうのです。と言っても、最近は前ほど聞かないような気もしますね。

とにかく、1944年に訳されたこの本にカタカナでライブ・ワイアと訳されていました。実際にこのプロジェクトをやっていると面白い一面はこのことですね。いつからいろんな外来語が入って来たかということです。

と言っても、疑い深い自分はほんとうにその時の日本語で使われていたのか、それとも、訳者は怠けてそのままにしたのかなと考えました。Googleで調べてみるとライブ・ワイア、ライブワヤーなどが日本語で使われていないこともないのですが、でもやっぱり多くもないですね。

元気者と書き直してから次の文章を読むと謎が解かされました。次の文章ではこの元気者のことは、英版でHeと書いてあるところで、ワイアと呼ばれていました。ということは、Live Wireというのは名前として受け取られていました!

Sunday, June 19, 2016

千松=ペコペコ?

まだちょこちょこと戦争中に日本語に翻訳された「アロウ―スミスの生涯」という小説を現代化しようとしています。古い字を現代の字に替えたり、現代使われていない単語を通じれるだろうというものに替えたりしています。その上、翻訳ミスも直すようにもしています。

そのようにしていると、最近「お腹のついた人」という意味で「千松」と書かれていました。このブログを読んでくださる日本人がそれが分かっている可能性がありますが、外人の自分は聞いた覚えが全然なかったのです。辞典で引くようにしても最初出てこなかったのです。が、一生懸命に調べると、やっぱり正しい意味のある日本語だったようですね

もちろん、自分が知らなかっただけでは使わないわけにはいけないですが、大体の日本人でも知らなそうだと、書き直した方がいいと思っています。外人の私がどうやってそれを決めるかといわれると、インターネットを使っています。ある辞典になかったり、グーグルで調べると結果があまりにも少なかったりすると使わないようにしています。

今回は「千松のふたり」というのを「飢えたふたり」と書き直しました。どうでしょうか?書き直した方がやっぱりよかったのでしょうか?書き直すにしても、このくらいの直し方でよかったでしょうか?


Wednesday, May 4, 2016

朦朧太郎さん - 書き直し

朦朧太郎さん
昔々ばあちゃんが川に洗濯に行きました。じいちゃんも魚釣りに付いて行きました。「下着汁で泳いでいた魚なんか食べたくないわよ」と言って、ばあちゃんはじいちゃんを上流の方に行かせました。
じいちゃんは楽しく魚釣りをしていると漠然と桃色のものが川の中で浮かんでいるのが見えました。二回も三回目ばたきしましたが、まだそのものが見えていました。だけじゃなくて、それからはじいちゃんがどこへ行っても、そのものが付いて回りました。何となくじいちゃんは新しい友達ができたような気がするようになりました。
としていると、じいちゃんはばあちゃんの声が聞こえてきました。「洗濯終わって、もう帰るよ」 ということでした。
「俺たちも付いて帰るよ」とじいちゃんが返事しました。
「俺たち?」とばあちゃんが尋ねました。
「うん、あの桃色のやつがどこにでも付いて回るよ
「付いて回るって?何も見えないわよ
「いるんじゃない!こっちに。ほら、あっちに行った」 と、じいちゃんはばあちゃんの方に振り向きました。
すると、ばあちゃんは「お目に何が付いているの?」と聞きました。
「何も付いてなんかいねぇ」とじいちゃんはじいちゃんらしく虫の居所が悪くなりかかっていました。

数十年じいちゃんの傍に居るばあちゃんは虫を無視して、じいちゃんの眉毛にくっついていた羽を落としてから二人だけで家に帰りました。

Saturday, April 23, 2016

おのれがいかに無知であるかを学ぶ

外人で、日本語の文学を勉強するというのは「日々おのれがいかに無知であるかを学ぶ」機会となります。

今の引用はアロースミスの10章の4の最後のところからです。小説の話は医学を勉強しているマーティン・アロースミスを指していますが、十分自分にとっても意味があります。意味があるだけではなく、意味があるからこそ美しいのです。

最近は宗教をやっていませんが、若いころやっていたのはモルモン教です。初めて日本に来たのもモルモン教の宣教師として来ました。日本のこと、日本語のことを教えたこの教会に関しては感謝しています。それに、文学の好きな自分にとってはまだ聖書、モルモン書の中身を文学としては賞しています。

今日、アロースミスで見つけた上の文書に似たものがモルモン書にもあります。エテル書12章27節:「もし​人が​わたし​の​もと​に​来くる​なら​ば、わたし​は​彼ら​に​各々​の​​弱さ​を​示そう。わたし​は​人​を​謙遜に​する​ため​に、人​に​弱さ​を​​与える。わたし​の​前​に​​へりくだる​すべて​の​者​に​対して、わたし​の​​恵み​は​十分で​ある。もし​彼ら​が​わたし​の​前に​へりくだり、わたし​を​信じる​なら​ば、その​とき、わたし​は​彼ら​の​​弱さ​を​強さ​に​変えよう。」

まあ、自分の今の考え方よりはちょっと固いのですが、とにかく、日本語に関してはこのように思っています。どんなに無知か分かることによって、段々と強くなっていくだろうと。このブログを読む方が、少しづつでも進歩が見えればと思っています。